Life is a game - 人生はオープンワールドでオープンエンドのゲーム (2017年)
あまり真剣に受け取ってはいけない。それはただ私たちの人生にすぎない——つまずきに満ちた一つの舞踏、愛撫に満ちた一つの憤怒、負けることのできない崇高な一つの遊びなのだ。
私たちの社会的・文化的・芸術的な構築のすべてが、まず第一に遊びとして生まれる(ホイジンガ)というのが本当なら、遊ぶことと生きることは同じものだと想像できる。
何ひとつ知らないこと——どこから来てどこへ向かうのか——の遊びとしての人生、オープンワールド(open world)にしてオープンな結末(open outcome)の遊び。ならば遊ぶことこそ第一の戒めであるべきで、イタリアは人生を遊ぶ勇気のうえに築かれた共和国であるべきなのだ。
『トイ・ストーリー2』のプロスペクター(Stinky Pete)は年老いた金鉱掘りの人形で、もとの箱から一度も出されず、一度も生きたことがなく、東京の博物館での展示を、自らの存在があがなわれる唯一の可能性とみなしている。
私たちが自分の人生を遊ばなければ、誰もそれを享受できない。のちになっても——たとえ極上の状態で保存され、一度も使われなかったとしても。
遊びと玩具は、私たちを取り巻く世界に対する私たちの力の隠喩であり、私たちが全能であり、私たちを待つ未来の創り手であったことの記憶である。
現代西洋のターボ資本主義において、遊びは別のものになる——科学的な遊びと、賭博の遊びに。自由市場というクラーケンは、私たちの人生のこの側面をも、ほかのすべてとともに呑み込む。もし遊びから、規則をときに跳び越える可能性を奪えば、遊びは遊びであることをやめる。たとえばサッカーという遊びは、科学的になることで、遊びであり叙事詩であるおのれの存在を放棄し、富める者たちの投資と権力の道具に、そして貧しき者たちの宗教に成り果てるのだ。
人生は理性から独立した一つの遊びであり、
現実の物理的な限界を横切って、精神へと注ぎ込む。
人生は自由な遊びであり、芸術は一つの玩具である——
それは物神(フェティッシュ)の役割を捨て、
その遊戯的にして聖なる本性へと立ち返る。
というのも、私たちを、理性には閉ざされた
あの美と聖性の高みへと引き上げうるのは、
「真剣な」遊び(子どもたちが遊ぶ遊び)だけだからだ。
アンコネッタ(anconette、木の小さな祭壇厨子)は、私たちの過ぎ去った遊びの小箱であり、私たちがかつて子どもであったこと、いまなお私たちのうちに宿るあの子どもを核として私たちが自分自身を創り上げたことの、永遠の記憶である。それらは思い出の小箱であり、時をある正確な一瞬に静止させうる時空の窓であり、過ぎ去った時の箱であり、不滅のイコンであり、俗なる神々への奉納であり、時間の線のうえの小旗であり、奉納物(ex voto)である——過ぎ去った時の、映像、音楽、香り、言葉、ささやき、暗示、そして喚起をたずさえて。
その聖性は、それらが閉じられ、秘められ、私たちの目をのぞくすべての目から隠されて生まれることにある。金を施し漆を塗ったその内部は、心を、私たちのうちの子どもを、私たちの人生のあの一息の時の音楽と響きを表している。
アンコネッタは、心の思い出の金庫である。
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あなた自身を五歳の子どもとして思い描き、その子どもに、あなたとともにいるよう誘ってみてください——あなたのうちにいまなお生きている、あの男の子、あるいは女の子に。
ティク・ナット・ハン
金融危機のさなか、ギリシャで、未来からのしるしのような出来事が起きた。何人かの子どもたちが、崩れかけた家のなかで大きな紙幣の束を見つけ、それをまったく新しいやり方で用いた——それで遊び、それを引き裂きはじめたのだ。これらの子どもたちは、いわば私たちの未来を先取りしている——世界は瓦礫と化している。その瓦礫のなかで、私たちは——あの子どもたちのように——紙幣で遊び、それを引き裂く。これらのギリシャの子どもたちは、金銭を、資本を、新たな偶像を冒瀆する。それをまったく別のやり方で用いること、すなわちそれで遊ぶことによって。冒瀆は、今日かくも物神化された金銭を、にわかに一つの玩具へと変えるのだ。
ビョンチョル・ハン(韓炳哲)
プラトンの対話篇『ノモイ』(Nomoi、『法律』)にはこう言われている——〔……〕人間は〔……〕神々によって作られた一つの玩具にすぎず、じっさいこれこそが人間の最良の部分なのだ、と。この考えの帰結として、すべての男とすべての女は、この遊びをできるかぎりよく遊びながら生きねばならない。
プラトン